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創作ブログ(旧『花待館』)です。 なお、当館内に掲載しております作品等については著作権を放棄しておりません。

約束の花を抱く泉 後編
後編です。
あ、そういえばクリスマスにバイトします。
楽しみです。
では、どうぞ。

約束の花を抱く泉


 三日という日々はあっという間に過ぎ去るもので、何とか食料や水、薬などもそろって荷物を整えることが出来た。だが、リーザは目に見えて気落ちしているように見えた。薬草採りや木の実集めで手と手が触れ合って頬を染めることは彼女がリュートを弾いた夜の後もあったことだが、リーザはふとした瞬間に切なそうにこちらを見つめている。これは三日前には無かったことで、メイスがどうかしたのかと尋ねてもただ首を横に振るばかりで、彼女は答えようとしなかった。
 「今晩……出立するのね」
夕食の時、リーザが不意にそう呟いた。
「ああ。今まで本当にありがとう」
「ううん……いいの」
そして彼女はまた、あの切なそうな瞳をこちらに向ける。
「メイス……知ってる?」
「ん?」
「私は水の妖精なの」
「出会った頃にそう言っていたね」
「私たち妖精はね……人間を愛することが出来る。いいえ、これは種族に限ったことではないわね」
「……」
リーザの絞り出すような言葉の意図が分からない。
「そして……人間を愛してしまったら、私たちは一生その人間を愛し続ける。何故だか分かる?」
「いや……何故?」
「想いが実れば……妖精は人間になることが出来るからよ」
「じゃあ……恋が、破れたら?」
恐る恐る聞いた仮定に、妖精の少女はしばし沈黙を保った。それは勿体ぶっているわけでは決してない、言うのを本気で逡巡しているような沈黙。
「も、もしかして不味いこと聞いたかな……さっき聞いたことは忘れ」
「消えてしまうわ」
もしかして聞いてはならないことだったのかと乾いた笑いでごまかそうとした言葉が遮られる。遮ったその言葉はあまりにも残酷で、違う言葉が欲しくて、彼はもう一度聞き返した。
「え?」
「……人間相手の恋が実らなければ、私たちは消えてしまうの。死んでしまうのよ。だから一生恋した相手を恋い続ける」
消えてしまう。人間が想いを受け入れなければ、恋する妖精は消えてしまう。それはなんて命がけの恋なのだろう。
「そんな……」
「あなたからしたら酷い話かもしれない。けれど、私は……私は……何を……」
途中からはっと口元を覆い、彼女は赤い顔でなにやらぶつぶつと呟き始めた。
「リーザ?」
「だ、だから、その……メイス……あなたにだけは知っておいて欲しくて……えっと」
メイスにだけは知っておいて欲しい。それは可愛らしい2人だけの秘密。しどろもどろになって俯くリーザは、だからソレの気配を感じ取れなかった。
ふと後ろを向いたメイスは、あのとき、彼を襲った獣がぐるぐると低く唸っているのを見てしまった。
「リーザ!」
「え?……きゃあっ」
「満月で気が高ぶっているのを火の気配で煽られたんだ!下がっていて!」
そう言い残すと剣を抜き放ち、彼は獣と対峙した。
 対峙して思い出したことだが、この間も満月だった。満月で気が高ぶっているところに血の臭いをさせた人間が尻尾を踏んづけてしまったのだから追ってくるはずだった。獣は右目を潰されている。あの日、彼が剣を刺したところだろうか。ならば残された左目は自分を傷つけたものへの憎悪と満月の狂気とで真っ赤に染まっているのだろう。
 先に動いたのは、少年。気合いの声を上げながら獣の鼻先に剣を掠めていく。狂気に侵された獣は、この泉の主すらその牙にかけてしまうだろう。せめて追い払うだけでもしなくてはならない。
 獣はぐおう、と咆吼を上げると、目の前の獲物を引き裂けることに歓喜して爪を振り下ろす。少年はその攻撃を飛びのいて再び剣を構える。
 鋼の剣と鋭く固い爪が交差し、少しずつ両者の身体を抉る。
「……メイス……」
リーザが心配そうにメイスの姿を見つめている。
――守るんだ。アンジェの代わりじゃないけど、リーザまで俺の所為で死なせたくない!
「はぁっ!」
ざくん、と剣に手応えが伝わり、獣が大きな咆吼を上げる。下っ腹のあたりの毛が千切れ、むき出しの皮膚から血が流れていた。致命傷ではない。けれどそれによって獣はより凶暴になる。
メイスでは勝てない。
けれど、リーザを守りたい。
二つの想いが入り交じった結果、より凶暴に、より速くなった獣の爪を防ぐのがメイスにはやっとだった。隙を見て斬りつけても、致命傷にはほど遠い。これが1人の時であれば逃げ出していたはずだが、リーザを守りながらではそれも叶わない。このままではメイスだけでなくリーザの命さえも危ない。
絶対に守りたいのに、そう思うのに体はうまく動かない。
「うわっ!」
木の根に足を取られてまた転ぶ。目の前には、獣。自分の目を奪った憎い相手を今こそ引き裂ける歓喜の咆吼を上げ、爪を振り上げる。
「リーザ、逃げろ!」
「あ……」
リーザは顔面蒼白で怯えきった表情のまま動かない。すぐに飛んでいって抱きしめてやりたいが、それはもう、おそらく叶わない。
爪が、振り下ろされる。
「メイスっ!」
何が起こったのか、分からなかった。
花のような赤い血しぶきが目の前に舞って、目の前に立ちはだかった少女がくずおれる。
それは一瞬の出来事なのに、やけにのろのろとした速度で展開される。
目の前に立ちはだかったのは、リーザ。血しぶきを上げて倒れたのは、リーザ。
「リー……ザ?……リーザ!」
くずおれる少女の薄緑の髪が、過ぎし日に喪った少女の姿にかぶる。
真っ赤に燃える空。少年をかばって死んだ少女。
『大好きよ……メイス……』
「うわあああああああっ!」
身体全体が壊れるような衝撃。また自分は大切なものを失ってしまう。その怒りに、哀しみに、大きく咆吼して彼は剣を構えて突っ込んだ。何かを貫くような感触。断末魔の悲鳴が響き渡る。
メイスはいつの間にか泣いていた。大切な人を喪った哀しみに、守ることすら出来なかった自分に、涙していた。剣を引き抜くと、どくどくと血が流れ、獣はうつぶせに倒れた。その脳天を突き刺してトドメを刺す。
「っ……リーザ……!」
剣をそこらに放り投げて、血だまりの中に倒れる少女を抱き上げる。右の肩口をざくりと斬られたようだが、まだ息はある。
「リーザ……ごめん……守れなくて」
傷口を泉で洗ってやるとすぐに血は止まった。けれど血を流しすぎたのか、リーザの顔色は悪く、意識を取り戻すこともない。メイスは荷物の中から傷薬を取り出すと患部に塗りつけた。
「……う……」
少女のまぶたが弱々しく震え、緑色の瞳が現れた。
「リーザ!」
俺が分かるか?と問いかけると、彼女はこくんと浅く頷く。それから無事だった左腕を持ち上げた。
「駄目だ、まだ動いちゃ」
「メイス……ありがとう……泣かないで」
私は生きているのだから。その言葉にメイスはますます泣きそうになる。再びかばわれて、自分をかばった少女達は無事ではすまなかった。彼女たちの優しさに、彼は胸が詰まる。
「どうして……」
「え?」
「どうして、俺なんかかばったんだ……こんなになってまで」
リーザが微笑む。普段のような朗らかな微笑みではなく、消えかけの灯火のような弱々しいものではあったが、彼女は確かに微笑んでいた。
「あなただから……メイスだから……かばったのよ」
「リーザ……」
「あなたのことが好きなの……愛しているの……だから、かばったの……妖精だけじゃないかもしれないけど、女の子は……愛する人のためなら、盾にだってなれるんだから……ふふ……」
「リーザ……そんな……」
愛する人のためならば盾にもなれる。リーザは確かにそう言った。ならば先ほどの妖精が人を愛すると人間になるか消えるかという話は、そのまま彼女の身に降りかかる運命だったと言うことだ。
「獣……倒すことが……出来たのね」
「リーザをここで、死なせたくなかった……!でも、守ることすら出来なかった」
白いたおやかな手が彼の頬に触れる。
「ううん……メイスはちゃんと私のこと、守ってくれたじゃない。私を見捨てて逃げても良かったのに、最後まで戦ってくれた……ありがとう……出立、邪魔してごめんなさい」
その優しさが嬉しくて、そのいじらしさが悲しくて、メイスはただ泣きながら首を横に振ることしかできなかった。

 出立を延期にして、今度はメイスがリーザを献身的に看病した。薬を塗ったり、食事を与えたりするその仕草に、彼女は嬉しそうに微笑む。その笑顔がもっと見たくて、今まで以上にリーザと共に過ごす時間が増えた。
「私、メイスの笑顔、初めて見た気がするわ」
怪我も大分治ってきたある時、彼女がそう言った。笑顔など他愛のない話をした時にはいつでも浮かべていたような気がするのだが、彼女には違うものに感じられるのだろうか。
「そうかな?いつも笑っているような気がするけど」
そう答えると、彼女は首を横に振った。
「ううん、確かに前も笑ってはくれたけれど、でも、今は前とは違う笑顔だもの」
「そ、そう?」
「ええ。前よりもずっと柔らかい笑顔だわ。……なんだか私の方まで嬉しくなってきてしまうような」
柔らかい笑顔。リーザの優しさを、彼女の愛を知ったからだろうか。けれど、メイスは未だ、彼女に対する気持ちを決めかねていた。以前はリーザを見てアンジェを思い起こしていたのに、今はリーザのことが頭から離れない。その理由が何故なのかが未だ分からなかったから。

 遠くから誰かが歩いてくる音がする。だんだん近づいてくる足音に振り返ると、黒髪のリーザそっくりの少女が微笑んでいた。片時も忘れなかった、愛しい少女。
『アンジェ……』
『久しぶりね、メイス』
アンジェは彼を優しく抱きしめる。
『アンジェ……アンジェっ……!』
あの日喪った温もりが蘇り、メイスは止めどなく涙を流す。肩口に顔を埋めて泣きじゃくる彼を、彼女はもう一度優しく抱きしめた。
『よかった。逃げ延びてくれたのね』
『でも、アンジェを助けられなかった……!どうして俺を逃がしたんだ!』
『……メイス。それは、私があなたのことを愛していたから。ううん、今でも愛しているわ』
優しく髪を撫でられる。体を離すと、アンジェは村にいた時の記憶そのままに、明るく笑っていた。
『俺は……また、大事な人を喪いかけた』
『でも、今度は助けられたわ』
その言葉に、癒される。
『メイス、好きな人が、出来たのね』
『俺が好きなのは、愛しているのは、アンジェ、だけ……』
彼女は彼の唇に人差し指を優しく当てる。それからこつりと額を彼のそれにくっつけた。
『ねえ、メイス。私はもうこの世にはいないわ。……それはとても寂しいことだけれど、私はあなたを生かすことが出来た、それでいいの。だから、ね、メイス……もう私に……過去の苦しみに捕らわれないで』
額をはなしたアンジェの表情は一点の曇りもない幸福の表情だった。愛する人を守るために命を散らした少女は、死の直前も、命を落としてからも、後悔などしていなかったのだ。
『アンジェ……』
『リーザさんのことが好きなんでしょう?』
両手を彼の頬に当てて、少女は聞いた。
『……っ……分からない。でも、アンジェに抱いていた気持ちとは違うような気がする』
『そうかしら?』
『ああ』
そう答える彼に、幼なじみの少女がしょうがないわね、と苦笑した。
『じゃあ、私から、最後の贈り物よ』
手を出して、と言われて右手を差し出すと、アンジェは自分の手を載せ、手のひらに握ったものを渡した。
『これは……』
『幸せになれる魔法よ』
そう答えて、アンジェの手がメイスの右手にソレを握らせる。しっかりと、途中で落として仕舞わぬように。
『ねぇ、メイス。私はあなたと過ごした日々がとても幸せだった。だから、あなたも幸せになって。……ずっと、ずっと大好きよ……』
『アンジェ!』
「メイス?」
はっ、と目を開けると、そこにはアンジェによく似た……リーザの顔があった。そこでようやく彼は夢を見ていたことに気づく。アンジェはもうこの世の人間ではない。そして今、目の前には守りたい少女がいる。
「ごめん、寝ちゃったみたいだ」
「ふふ、いいのよ。ずっと私の看病してくれて、疲れもたまっていたと思うし」
メイスが頭の下を見ると、寝る前は確かに土の上だったのに桃色のスカートに変わっていた。ということは、リーザにずっと膝枕をさせていたことになる。
「ご、ごめん!」
頬が熱くなるのを感じながら体を起こす。彼女はきょとんとして大丈夫よ、重くないし、と答える。
「怪我にさわるだろ?まだ完全に良くなった訳じゃないんだから」
「そうね……でも、もう大丈夫。ほとんど治ったし……あら、メイス、右手、何握っているの?」
言われて右手を開くと、夢の中でアンジェがくれた『幸せになれる魔法』が入っていた。少し大きめの魔法。花を咲かせるのはいつなのか、彼には皆目見当が付かなかった。
「夢の中で……もらった魔法だ……」
「夢?」
「ああ……アンジェが夢の中に出てきて……幸せになれる魔法だって」
「幸せになれる魔法……か……」
素敵ね、そう言って2人は笑いあった。

 「よし、具合も良くなったな」
数日後、リーザの怪我はすっかり癒えた。
「メイスが一生懸命看病してくれたからよ」
「そ、そうかな」
「ええ」
暖かな光の中で交わされるやり取り。その瞬間が、メイスにとってはたまらなく愛おしい。たとえそれが、もうすぐ無くなってしまうものだとしても、かけがえのない、安らぎに満ちた時間だったから。
 次の満月の晩にはメイスは出立しなければならない。彼がここを出て、目指す先は決まっていた。この森を越え、村を二つ越えたところにある町だ。そこに行けば彼の伯母がいる。事情を話せば世話をしてくれるだろう。そうすればもう、獣に襲われることはなくなる。しかし、それは目の前の少女との別れをも意味する。
旅の身空から解放されたい。早く安全なところに行きたい。けれど、この優しい少女を独りぼっちにしたくない。
――どうすればいい?
これは彼の勝手な想像だが、きっとリーザはこの泉から離れられない。だから、彼は彼女を連れて行くことが出来ない。けれど、彼女を1人にしてしまったら、リーザは消えてしまうかもしれない。
ふと、昔のことを思い出す。
『好きな人が、できたの』
それは、アンジェがまだ生きていた頃の話。朗らかに笑うアンジェにメイスは少しだけ拗ねてみせる。幸せそうに他の男のことを話す彼女が面白くなかったから。
『お、俺の方がそいつよりアンジェのこと、好きだもん!』
その台詞に、彼女は小さく吹き出した。ますます面白くなくて、さらに拗ねてみせる。
『どうして笑うんだよ』
『だって全然気づいてないんだもの』
それから、軽く彼の頬に口づけを落として、微笑む。
『私が好きなのは、あなたよ、メイス』
『アンジェ……』
『だから、ね、メイス?約束、して欲しいの』
大好きな少女が他の誰でもない、自分を好いてくれている。それが嬉しくて、こくこくと何度も頷いた。
『ずっと、一緒にいて欲しいの』
『うん!ずっと、アンジェと一緒にいる。だから、その、大きくなったら、結婚しよう』
どんどん熱くなる頬を抱えてそう言いきると、アンジェも顔を真っ赤に染めて嬉しそうに頷いたのだった。
『ええ、約束よ、メイス』

――そうだ、約束……。アンジェがくれた、『幸せになれる魔法』……。
少年の懐には、一粒の少し大きな魔法が入っていた。

何か辛いことを言うのにはそれ相応の決断をしなければならない。その決断はずっと前からしていたことだが、改めて言うとなれば、それも、相手がどう思うかを知ってしまった後ではその重みが違う。 しかし彼は言わなければならない。
本当に告げたいことは辛いことだけではないのだから。
だから彼は深呼吸をすると木の実を小袋に入れているリーザの名を呼んだ。なぁに、と振り向く彼女に胸が少しだけ痛む。
「俺、……今日の晩、出立する」
リーザの喉がひゅっ、と鳴り、彼女は小袋を取り落とした。
「もう……行っちゃうの?」
「……ああ。これ以上ここにはいられないから」
「危ないから?」
「リーザを危険な目に遭わせちゃうから」
「そんな……いきなりよ……早すぎるわ……」
「でも……ずいぶん前から決めていたことだから」
苦しい。告げた一言が、とても重い。
「……で」
俯いてしばらく沈黙を守っていたリーザがか細い声を上げる。聞き返すまでもなく、今度は縋るように叫ぶ。
「行かないで!私を、1人にしないで……!」
それは、初めて見る、彼女の涙。今にも崩れ落ちてしまいそうに震えながら、それでもその手は彼の腕を掴んで引き留めることはできない。彼女はもしかしたら、最初から別れを恐れていたのかもしれない。
「リーザ……」
「好きなの!メイスのことが好きなの!あなたに置いていかれたら、私、消えてしまう……!」
泣きじゃくるリーザは、もう、1人の少女だった。メイスは懐に入れていた物を取り出して彼女に握らせる。
「リーザ。俺は……必ず戻ってくる」
「メイス……本当に?置いていかない?」
「ああ。絶対に、迎えに来る。だから、それまで消えないで。……これ、ここに植えていいかな」
握らせた物を見て、リーザは彼の顔を見る。
「これは……」
それは、一粒の種。どんな花が咲くのか、いつ咲くのか、草なのか木なのかすらメイスには分からなかったが、きっと自分はこの花が咲く頃にまた、彼女と巡り会うだろうと思う。
「俺には何の種なのか分からないけれど、この種が芽を出して、花を咲かせる頃、俺はきっとリーザのところに戻って、君を迎えに来るよ」
少女の目にますます涙があふれる。彼女はこらえきれずに去りゆく旅人の背中に手を回し、流れるままに涙を流した。
「待ってる……待ってるわ、メイス……ずっと、ずっと待ってる!だから……必ず迎えに来て!」
旅人の行く道を照らす満月と、彼の背を押すそよ風だけがその光景を見守っていた。

 それから、数年が経った。泉の主はあの夜に植えられた種を、大事に育てていた。
「うん、もうすぐ咲きそう」
彼女はその花がいつも目に届くところにいつもいる。長い月日をかけて種は可憐な一輪の花となり、リーザはそれを見てはこの花を残した旅人のことを思い出す。
「忘れて、ないよね……メイス。もうすぐ花が咲くのよ。一緒に咲いた花を見たいわ」
初めて彼と出会った時、あまりにも縋るように手を伸ばすから、彼女は彼を支えたいと思った。リュートで子守歌を歌った時、彼の涙に彼の心を癒したいと願った。その願いは水を掛けて打ち消そうとしても決して消えず、それどころか一層胸の内を焦がしていく。それが恋だと気づいたのは、奇しくも彼が最初に出立すると言った日のことだった。それでも形振り構わず引き留められない自分を情けなく思い、それならば消えてしまったほうがましだとさえ思った。だが、そんな臆病だった彼女の気持ちに気づいてか否か、彼はどこまでも彼女を友達だと思いたがった。
――元気に、してるかな。私のこと、覚えていてくれてる?
獣に襲われた時に彼が守ってくれたのが嬉しかった。かいがいしく世話を焼いてくれたのが嬉しかった。けれど、自分から動かなければ彼が自分から離れていくのを引き留めることはできない。
『あなたに置いて行かれたら、私、消えてしまう』
妖精の運命を盾にとって、なんて卑怯な手だったのかと思い出すたびにリーザは思う。だが、彼は消えないで欲しいと言ってくれた。本当はそこで満足するべきなのかもしれないが、彼女は彼と共に生きていきたいと願った。2人で幸せになりたかったのだ。泉に縛られた妖精ではなく、人間となって、かつてメイスが愛したアンジェという少女のように彼と幸せになりたかった。
「だから、ね……早く咲かないかな」
早く咲けばその分だけ彼は早く来てくれるかもしれない。もうつぼみはほころび始めている。
「メイス……」
「リーザ」
背中にかけられた懐かしい声。振り向けば、あの頃よりも幾分か大人びた大好きな人の姿。
「メイス!」
「ちょっと早かったかもしれないけど、迎えに来たよ」
妖精のリーザが抱いた恋心は彼の帰還によって叶えられた。日の光が強くなって2人を包み込む。リーザは言葉では言い表せないが自分の身体が泉から解放されるのを感じた。
 約束を果たして、泉の妖精は人間へと生まれ変わったのだ。リーザ、とメイスが囁く。
「あのとき俺は、リーザへの気持ちをはっきり決められなかった。でも、今なら……分かるよ」
「聞かせて、メイス」
「好きだ、リーザ……愛してる」
それは何よりも美しい響き。約束を抱いて生きる妖精から1人の人間の少女に生まれ変わった彼女への、何よりの祝福の言葉。
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